とある28歳の体験談と趣味嗜好

主にグルメと映画と趣味についてのブログ.

【鉄血のオルフェンズ、マクギリスを見て思う】好意を向けられても、皮肉ったりそっけなく返しちゃうのは自分自身に許可を与えていないからではないか

自分に向けられた親切や優しさ、好意を認められず、つい皮肉ったり無意識で傷つけてしまったり、「一人の方が性に合ってる」と思ってしまうのは、「自分で自分のことを嫌い、認めていない」ことが原因ではないかと思う。

 

極端に言えば、

・友達がいる自分

・恋人がいる自分

・楽しく談笑して過ごしている自分

を自分自身に許可していない、認めていないからじゃないかということである。

 

向こうから「友達になりたい、仲良くなりたい、恋人になりたい」と思われ、実際に呼び水を向けられても、つい無下に扱ってしまい、「俺は孤独が向いてるのさ…」と独り言ちてしまうやつである。

 

その原因って、幼少期に無力感を味わったことがあるんじゃないか。それが原因じゃないかと思うのです。

 

とあるユーチューブ動画から

こんなことを考えるきっかけは、アニメ「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の一場面を見たからですね。

youtu.be

一応見たことない人向けに説明すると、あこぎな主人公を支援していた人物「マクギリス」が、自身の所属している団体を乗っ取るクーデターを実施したところ、劣勢になり、伝説と言われるモビルスーツ「バエル」を操って、自分の力のみで一発逆転をしようとした場面です。(詳しくは本作品を見てね☆)

 

これを視聴していた人向けに以降は話しますけど、当時は脚本に非難ごうごうでしたよね。

あのマクギリスが無策すぎるみたいな。

 

自分も当時このラストに向かっていく展開を糞過ぎるとは思っていたのですけど、考えを改めました。

 

このラストの力で覆そうとした場面、最後のガエリオとの会話、そしてそういうマクギリスを見て、同じように現実社会において「自身を許していない人がたくさんいるんじゃないか」と思い至ったわけで、今回このブログを書くんですけども。

 

改めてマクギリスについて説明をすると、幼いころに引き取られたファリド家において性的虐待をされ、大人になって幼少期時代から友情と好意を向けてくれていた幼馴染二人を謀殺しようとし(一名死亡)、最後には伝説の機体に乗ってたった一人で敵艦隊を壊滅させてやろうと意気込んだ人物です。

 

ここからはマクギリス氏の友情面と恋愛面についてフォーカスしますが、第一期において自分に好意を寄せていた女性を間接的に殺害されるように仕向け、親友と思って慕っているガエリオを友達ではないと見捨てる。

 

このラストシーンを見て、友達を裏切り、好意を無下にし、「なんでそんなことをしたのかな」と思ったときに、マクギリスは幼いころから自分自身の存在を許しておらず、好意や友情を向けられる資格が自分にはないと思っていたんじゃないかと思うんです。

 

自分は友情や愛情を向けられる資格がないと「思い込んでいる」

向けられている友情や愛情は本物だった。けど受け取る側が「そんなの嘘だ」と信じていない。

なぜなら『自分自身がそれを受け取るに値する人物ではない』と思っているからじゃないかと。

 

幼少期の性的虐待などのつらい思い出、それに抵抗できなかった自分自身が心底嫌いで、自分自身を認めることができない。自分にしかわからない人生の落ち度、汚点。

 

周りの人はそんなことは知らない。ただ自分が会ったときに得た印象で、この人は好きだ、友達になりたいと判断する。その心に嘘偽りはない。

けれど当の本人は、自分しか知らない過去の汚点、失敗、自分が忌み嫌っている汚点を全て含めたうえで好意を持たれていると考えてしまう。

 

これこそが、マクギリス自身が友情や愛情を素直に受け取れず、嘘偽りと考えて信じきれなかった原因ではないかと思う。

過去の落ち度をずーっと引きずって生きてきて、出会う人すべて「自分の過去を掘り起こすんじゃないか」と警戒するため本心を明かせず、向けられる好意や友情を真正面から受け止めきれず、信じられず、「俺はこんなことをやってやったんだぞ!」と言えることを成し遂げて初めて、後ろめたくない堂々とした人生を歩めると考えたのではないか。

 

それが作中でのクーデターであり、アリアンロッド艦隊を一人だけで壊滅させようとした動機であり、ガエリオを見ようとも知ろうともしない理由であり、幼いころの自分を投影した婚約者アルミリアに対する幸せの約束だったんじゃないだろうか。

 

現実でも

僕自身、人付き合いは苦手な方だ。

友情というものがわからないし、恋愛に関しても「好意を向けられている自分に今その資格があるか」という目線で受けるし、何事かを成し遂げなければという空虚な焦燥感をたまに感じている。

 

今回、脚本の失敗だなとしか考えていなかったマクギリスのラストバトルを改めて見たことによって、その気持ちは「過去の汚点と思っていること」を許していない自分自身が作り出しているんだなと確信に変わった。

 

「友達なんて」「友情なんて」「恋人なんて」って思う気持ち、自分に向けられた友情や好意を素直に信じられないのは、「自身が過去の自分をいまだに許していないから」なんだろうと。

 

だから今、生きていて「人の行為を素直に受け取れていなかったり、素直に信じられなかったり、あえて拒絶してしまっていたり、自分から否認されようとすることすべて」は、未だに過去の自分を許せていないことに集約されるという結論に至る。

 

コミュ障を自覚している人が、人と人並みに交流できるためには

人の行為を素直に受け取ったり、一緒に馬鹿話したりして笑いあったりしたければ、まずは自分の中で本当に認められていない過去の汚点(と思っているもの)を許すことが第一歩なんだろうと思う。

 

それが原因なんだよと。

 

自分自身が、過去の汚点と思っていることを汚点と思い続ける限り、ダメな自分が暴かれてしまうのではないかと構えてしまうし、自分を大きく見せようとしてしまうし、自分に好意を持つなんてお世辞だ、嘘だと考えてしまうし、自分から人を誘うなんてもってのほかで誘われるのを待つようになってしまうし、なんでも自分は後回しで人に譲ってしまう生き方になってしまうんだと思う。

 

以前適応障害になったことがあり、偶発的にこのことを悟って格段に生きやすくなった時期もあったけど、はっきりと理解していなかったため、すぐに元の生きづらさに戻ってしまったことがある。

 

ただ今回、その生きづらさの「心の杭(と表現してるけど)」がはっきり意識できるようになったので、このことに気づいて場面場面で考えすぎないようコントロールすることによって普段の生活がさらに生きやすくなるのではないかと思う。

 

周りの人は、あなたが考えているほどその汚点(と思っていること)を認識していないし、何なら「汚点と思っていない」可能性がある。

 

何の気なしに書いたエントリーだったけど、見てくれた人の生きやすくなるヒントになったらいいなと思う。